「本の島」は、編集者の故・津田新吾さんの魅力的な仕事とアイデアを手がかりに、あたらしい出版文化のありかたを模索する共同プロジェクトです。それは、どのような経緯で、どのような想いから、はじまったのか? 「本の島」実行委員のTYが、電子メールマガジン「[本]のメルマガ」 vol.390 に寄稿した文章を転載します。(A)
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津田新吾さんからはじめて「本の島」の構想を聞かされたのは2005年の春、ベルギービールが売り物のパブでのことだったと記憶しています。版元を作りたい、力になってもらえませんか、といきなり言われて、とても嬉しかったのですが、さほど驚かずにいる自分自身にむしろ驚いていました。
私が書店勤めをしていたころに、堀江敏幸さんの『おぱらばん』をずっと「最恵国待遇」しつづけた、それがその本の編集をされた津田さんとの縁のはじまりでした。それからいろいろとイベントなどを一緒に企画するなかで、気遣いの細やかさ、ものごとの根幹についてはいっさい妥協しない厳格さ、またそれと矛盾しない大胆さに魅了されるようになりました。繊細な蛮人、というのが私のなかの彼のイメージです。
あるイベントの打ち合わせで、どうしても私が店の都合で出席できなかったことがありました。津田さんが強い口調で「どうしてYさんは来ないんですか。彼ならきっとすばらしいアイデアを出してくれるはずなのに」とおっしゃっていたと聞かされ、その買いかぶりも含めた言葉にとても申し訳なく思いましたし、今でも少し後悔しています。
まだいまほど書店員の声がメディアをにぎわせていなかったころの話で、そんなふうに小売り側の人間と同じ目線の高さで一緒に何かを考えてくれる編集者は、私の知る限りではそれほど多くありませんでした。
またそのころになると、青土社の新刊が毎月出るたびに、表紙を眺めただけであとがきを確認するまでもなく、どれが津田さんの手がけた本なのか、すぐにわかるようになっていました。編集者自身の装丁も少なからずありました。
それらの本は美しく、しかし世紀の変わり目の出版文化のなかでは、本たち自身が少し居心地悪そうにしているようにも映りました。2月から青山ブックセンター本店でおこなわれている「オマージュ、津田新吾」というフェアをごらんになった方には、その感覚に共感してもらえるような気がします。
その後しばらくして私は書店勤めを辞め、知り合いの編集者が一人で立ち上げた出版社に入り、取次との取引口座開設の交渉から、書店営業、取次相手の経理精算などを行うようになりました。しかししだいに二人だけという息苦しさに耐えきれなくなり、二年ほどでその会社を離れ、しばらく青土社の営業部で肉体労働バイトをさせてもらっていました。
その期間に、ときに何杯かのベルギービールを、あるときは薩摩料理を挟んでの起業相談が何度か行われ、彼が抱えていた病気のこと、勝手に退院して南の島に行ったとなどいう話も聞きました。
どうして彼から「本の島」について切り出されても驚かなかったのか。それはアルバイトとして津田さんの本を運んだり、返本の汚れを落としたり、カバーを巻き直したり、あるときは断裁のためにパレットに積み重ねたりするなかで、新しいものほどかつての「あとがきを確認するまでもなく」という光彩が感じられないような気がしていたからでした。
ある本の帯にあった「10万部突破!(するかも?)」というコピーに、津田さんの苦しみを見たような気にも勝手になっていましたし、何度目かの起業相談のときには酒精にまかせて「ああいうことは津田さんはやらないほうがいい」と言ってしまったことさえありました。「やっぱりそうか」と素直に恥じ入る津田さんを見て一気に酔いは冷めて、今度はひたすら自らの不用意さを恥じたものでした。
細かい事情までは書き連ねませんが、病気を抱えた編集者と、身重の妻を抱えたフリーターの起業話が現実の壁を越えることはありませんでした。自らの構想に相手の人生を巻き込んでいいのか、という迷いが津田さんにはありましたし、私には、それがすぐには生活の糧にならないとしても、片手間での協力では実現しないだろう、という思いがありました。
その翌年から、私はある出版社に編集者として勤めるようになり、本の島からはあまりにも遠く離れた仕事ばかりをするようになりました。自分自身のモラルに反するような仕事もありましたし、仕事自体があまりにも内向きな事情で消滅するという事態も何度か経験し、関わってくれた人たちに迷惑もかけました。
しだいにかつて持っていた関心の領域からも、関心を共有していた人々からも遠ざかるようになっていました。津田さんからも何度かお手紙をいただきながらも、一度も返事を出すことができなかった。
いつか、それが明らかに津田さんの「島」とは気候も風土もかけ離れたものであっても、ひとつでも満足できる自分の島を作ったら会いに行こう、とずっと思っていましたが、なかなかかなわずにいました。
昨年の夏ようやく、今もっている力はすべて注ぎ込んだ、そう思える本を一冊つくることができました。その校了前日に、かつて私を肉体労働に誘ってくれた青土社営業部のIさんから、津田さんが亡くなった、という知らせを受けました。
小さな校正用の部屋で一人、しばらくは涙が流れるまま、止めようとは思いませんでした。こちらの勝手な思いこみを現実は待ってくれない、という当たり前のことを生まれて初めて噛みしめていました。
お通夜にも、その後しばらくしてあった津田さんを送る会にも参加させていただきましたが、正直いって行くのが少し怖かった。とくに津田さんのパートナーのSさんにどうやって謝ればいいのか、そればかりを考えていました。
送る会の席上でSさんや堀江さん、野崎歓さんから、津田さんの「本の島」の話にはかならずあなたの名前があった、と聞かされて、驚きと嬉しさと後悔とがないまぜになった、なんとも形容のしがたい感情に襲われました。
ただ、その場でSさんから、長期的な目標ではあるけれども「本の島」を実現させたいと思っているので協力してください、と言われなければ、私と「本の島」との関わりは終わっていただろうと思います。津田さんと会わなかったあいだも、どうすればその構想を実現できるのか、その問いはいつも続けていましたが、もう一度それを本気で考える機会をSさんからいただき、ほんとうに感謝しています。
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この1、2年で、いろいろな出版社で優れた仕事をされてきた、私の知っている編集者が何人もそれぞれの会社を離れていきました。リストラも、それに近い形のケースもあったと聞いています。編集業を続けている人でも、常勤、フリーランスを問わず、その人のもっている核となるものを十分に本のなかで実現できている人は、私の知っている範囲ではあまり多くなさそうです。
津田さんのなかで「本の島」構想が芽生えたころよりも、現在の状況はもっと厳しい。だけどそのことが、そのまま本という文化の衰退を示しているとは私には思えません。変容はしていても、文化が目減りしているわけではない。
ただ、その文化が依存してきた方法の耐用年数が過ぎつつあることは、ずっと前から誰の目にも明らかだったはずです。それが社会全体の機能不全のなかで、いっそうのっぴきならないかたちで浮きぼりになってしまっているのが、今日の状況なのではないかと考えています。かつて新参者の版元の人間として、参入障壁の理不尽なまでの高さに直面した身には、そう思えてなりません。
5月、6月と青山ブックセンターで開催していただくことになった〈「本の島」をめぐる対話〉というトークショーは、津田新吾というひとりの編集者の仕事と人柄を振り返る、ということが主旨ではありません。構想を投げかけられた著者の方々にそれぞれの「本の島」を語っていただくことで、島の稜線がおぼろげにでも浮かび上がってくるのかどうか、それがこのシリーズのテーマです。
このシリーズにはすでに数人の方々に関わっていただいていますし、津田さんの起こした波の飛沫を浴びた人たち(そこに「読者」が含まれることは言うまでもありません)の言葉とまなざしは、少しでも多く集めなければならない、と思っています。
私の中にも「本の島」実現のための小さなアイデアはありますが、それが島の風土に相応しいものかどうかは、集められた言葉とまなざしのなかで精査されなければならないものだと考えています。
だからここから先はあくまでも私個人の考えに過ぎないのですが、仮に「本の島」構想が何らかの形で実現したとして、それが津田新吾という傑出した人物がそこにいたから可能だった、というものであってはならないと思っています。
本に対する情熱と、それを世に送る努力を惜しまない人であれば、誰にでも利用可能なひとつのモデルとして、「本の島」という出版活動が存在すること。言葉にしてしまうとあまりにも尊大な、大きすぎる目標ですが、そんな島の姿を夢見ています。
津田さんの思い描いていた島は、単一の島ではなく、小さく多様な島々のゆるやかな連なり、群島でした。そうであるならば、私自身の責務は彼の劣化コピーを目指すことではなく、津田さんの構想への私なりの「返歌」を返すことなのかな、と考えはじめています。
まだ何も始まっていない、でもすでに始まっているのかも知れない、そんななかで行われる「対話」を、少しでも多くの方に目撃していただき、また、対話にご参加いただきたいと思っています。津田さんの仕事を知らない、という方は、ぜひ「オマージュ、津田新吾」というブックフェアをご覧頂き、さらに対話の場へと足を向けていただければ嬉しく思います。
TY(編集者/「本の島」実行委員)
初出:[本]のメルマガ vol.390